2014/06/22

精神分析のあいまいさと,人の心の不確かさ(症例Aを読みながら)

先日紹介した症例Aを再読してみると,なかなか興味深い部分がありました。
/* これは小説に対する感想です。学問的な内容ではありませんのでご了承ください
/* 症例Aに関する紹介ページはこちらです → 記事を読む
精神分析なんてのはね,きみたち,文学であって医療ではないんだ。
主人公である精神科医が学生時代に聴いた,作中の講義で精神分析について語られた言葉を引用しました。
精神分析とは,木の絵を描くバウムテストや様々な図柄から連想するものを回答するロールシャッハに代表される,被験者の心理状態を分析する一連のテストのことです。
子どものころに誰もがやったことがあるであろう性格テスト(どんな職業が向いているとか,そんなのです)も広い定義で考えればその一つですね。
わたしたちの生活に,かなり密着したものだと言えるでしょう。

著者は「対象a」の概念をはじめとするラカン派の精神分析学について,「みょうに難解で観念的な物言い」で「観念の上に観念を積み重ねた複雑な空楼閣」のような「観念遊び」に過ぎないと言い放ちます。

痛快なまでに懐疑的ですねぇ (笑)
インクのしみ汚れにしか見えない図柄からイメージするものを被験者に答えさせて,その回答から被験者の精神状況を分析して診断すること(ロールシャッハ)自体,わたしも信憑性が乏しいと考えています。
分析者の解釈が難解なものやこじつけに近いものになる部分が多いでしょう。
しかも被験者に対する分析者のイメージ次第で,その分析結果(=診断結果)が左右されるのです。
そうやって考えると少しゾッとしませんか?

著者はこれを「医者の良心」に関わる事案だと説いています。
人間というものがよく判らない。その脳がまだよく判らない。しかし判らないことに苛立って,空想の世界に入ってゆくのは控えようじゃないか。観念の上に観念を積み重ねるんではなく,あくまでも謙虚に,実証的に,人間の脳の働きを,そして病気を見ていこうじゃないか。それが医者の良心というものだと,わたしは思う。
統合失調症(かつて「精神分裂病」と呼ばれていた精神疾患)のように脳の器質的な失調による病気は,治療法が確立されつつあるようです。
それでも大半の精神疾患は,患者ひとりひとり症状や治療法が異なるものです。
「心の風邪」と表現されることも多いうつ病を例に挙げます。
画一的に抗うつ剤を投与すれば一直線に完治する単純な疾患ではありません。
医者や周囲の身近な人が患者さんと真摯に向き合うことが,治療者としての良心とリンクしているのでしょうね。
精神科医は,概念遊びに長ずる必要などないんだ。観念遊びにひたった頭で患者を診断するのは,きわめてたちの悪い行為だ。(……) 精神分析で患者が本当に治るんならまだしも,そんな実例はほとんど見あたらない。(……) ーーーくどいようだが,精神分析なんてのはね,きみたち,文学であって医療ではないんだ。
言いきりましたよ (笑)
本文中には数例の夢分析の解釈が引き合いに出されています。
確かに「これで治るなら医者は不要だな。だからどうしたんだい?」と思えるような,トンデモ解釈ばかりです。
著者は医者ではありませんが,綿密な取材と調査を重ねているので事実無根の主張ではないのでしょう。
なにより文学に携わる著者によってかかれた言葉ですから,それなりの重みがあります。

誤解を恐れずに書きます。
友人にも「心理学を学びたい」という人や,その類の話題が好きな人がいます。
実際に心理学を学んだ友人は,難解な観念をこねくり回す哲学的な思想に傾倒したり屁理屈が好きな人でした。
心理学を専攻した人すべてが医療に携わるわけではないにしても,仮にわたしが患者だったとして「この人には診てもらいたくない」と思う人でした (笑)

真面目に精神分析を学んでいる方,実践されている方の反発を受けるかもしれません。
それでも科学的に実証されない限り,精神的疾患の診断に「絶対」はあり得ないと思うのです。
基本的に快活で社交的な人でも,一人静かに考え事をしたいときだってあるでしょう。
その日の天気や気分で人が変わったように思えることもあります。
裏を返せば,不確かで判らないからこそ人間の心はおもしろいのです。


/* 日本平の庭園で撮影した木の写真です
/* バウムテストとは関係ありません (笑)

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